アンダーグラウンド

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

ともあれ読み終わったので感想を。それぞれ全く繋がりのない、固有の自分の生を着実に歩いてきた人々が、ある日突然それまで想像もしていなかったような「事件」に邂逅し、大きな傷を(場合によっては「死」を)受け、それを抱え込んで生きてゆかねばならなくなる。その「運命」に捉えられることに何の理由もないというのは(「李徴」が虎になったのと同じで)、人生において当たり前のことだ。しかし、世の中のほとんどの人間がそれを自分に無関係のものとして忘れ去っていく。そうして事件は風化していく。それもまた当たり前のことなのか?村上春樹がこのようなことを試みた理由は、そのことに異議を唱えるためであると言っていいだろう。その中で浮かび上がってくるのは、近代化によって急激に膨張してきた「都市」の異形さだ。サリンによって倒れていく人々のほとんどは、自分の体調がすぐれないせいだと思い、また、その程度のことで「仕事」を休むのはいけないことだと感じて、何とかして会社にたどり着こうとする。周囲の状況の異常さを自分の目で見ながらも、その事が自分に関係することだとは気付かないままに。そして、被害を受けなかった周囲の人々は、何事も起こっていないかのように日常の営みを続けていく。テロという行為の異常性は言うまでもないことだが、こうした無感覚さにも怖いものがある。そしてそれは、テロの、あるいは他のもっと小規模な犯罪行為の「源泉」でもあるように思える。「都市」で生きる人間は、言ってみれば「記号的」な存在に成り下がってしまっている。ある会社のある役職に就いて、毎日定時に地下鉄に乗る。混雑を極める車内には、そうした「顔」を持たない人々が、周囲の自分とは何の関係もない、数知れない記号と一緒に運ばれていく。同じ規格の商品が、トラックに整然と積み込まれて運搬されていくのと同じに。そして、そこに事故が起きた時、数量的な損失として数えられ、何事もなかったかのように別の記号が補充され、世の中は何の変わりもなく同じプロセスを繰り返していくだけだ。そうしたことの「非人間性」は何も問題とされず、犯罪者は機械的に裁かれていく。しかし、「人間」が「人間」であることは、そんなに簡単に処理されるものではない。「顔」をはぎ取られ、ルーティーンだけを強要された人間性は、暗い部分を肥大させていく。それが「やみくろ」を産み出していく。人間は自分の存在を「都市」に喰われ、その「地下」に「闇」を広げていく。福知山線の事故で、周囲の住民が被災者を助け出すのに必死になれたのは、そこが「地元」であり、人として生きている場所だったからだ。東京で、周囲の通勤者が全くと言っていいほど被害者に関心を払わないのと比べれば、その違いは歴然としている。人間が作り出した最も危険な猛獣、「都市」に喰われるな。効率と規則で縛られた「記号」に甘んじないことによって。