無題

 昨日は一日、今日は午前中、お休みを頂いた。またもや3クラスが自習となり、生徒の皆さんにも、国語科の先生方にもご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
 一昨日の夕方、妻のおじいちゃんが亡くなった。享年92。もう長くガンを患って、ここ一ヶ月ほど入院していた。私はお見舞いに行っていないので、実際の所はわからないが、あまり苦痛もなかったようで、大往生と言ってもよい亡くなりかただったそうだ。ただ、容態が悪化してから亡くなるまであまり時間がなく、肉親は最後の瞬間には立ち会えなかった。
 故人と家族の意思で、葬儀は簡素に。昨日が納棺。今日は荼毘に付された。
 会うことは年に1、2回だったが、十年以上のお付き合いがあり、一緒にお酒も飲んだりしたおじいちゃん。私の妻を幼いころからかわいがってくれた人。追悼の気持ちはあるが、身内の葬儀の経験がないので、葬儀業者の方に教えられるままに動くだけの私。至らない点お許し下さい。
 誤解を招くかもしれないが、率直に感想を言うと、「死」というのは、清浄で、平穏なものなんだと私には感じられた。(それは私の偏った感性かもしれないが)安らかに眠るような表情のご遺体を、棺に横たえ、「旅支度」をする。全てが白い生地で作られた、手っ甲、脚絆、足袋を家族の手で身につけ、数珠、白木の杖、草履、編み笠を持たせる。白い装束を上から掛け、さらに薄い蒲団で体を覆う。これで、死後の世界へと旅立つ準備が出来る。出来上がった姿は、清々しい、としか私には形容の言葉がない。
 今日は、棺の中に生花を沢山敷き詰め、いよいよ最後のお別れ。(旅の途中、必要な、お弁当と、紙に書いた六文銭、好きだったタバコとお酒も入れる)火葬の窯の扉が閉まる時はさすがに、少し涙腺が刺激される。
 最後に、お骨を拾う。小柄で、飄々とした感じからは想像できないような骨太なお骨だった。「お年を召されているのに、のど仏がしっかりしていますね」と斎場の方も言っていた。さようなら。おじいちゃん。

 私は「死」というものを恐いとか、嫌だとか、どうしても思えない。「生」と「死」について考えざるを得ない時、私の頭に浮かぶのは、寺山修司の「懐かしの我が家」という詩だ。しかも、断片的なうろ覚えでしかないのだが、「自分は、昭和○○年、○月、○日の朝、不完全な死体として生まれ、何十年かかけて、完全な死体になるだろう」というような一節がある(はずだ)。これを、昔は、どうせ死ぬと決まっているんだから、何をしようと意味など無いのだ、とネガティブに受け取っていた。でも最近は、死ぬと決まっているからこそ、今この時の生のプロセスが、取り替えも、やり直しもきかない貴重なものだと思うようになってきた。あそこにたどりつくまでは、やりたいことをやっていたい。