福知山線脱線事故

 起きてはならない痛ましい大きな事故が起きてしまった。
 私は今たまたま村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んでいる。地下鉄サリン事件の被害者達に地道にインタビューを行ったノンフィクションだ。それらの人々は、みなそれぞれのかけがえのない人生を送っていて、それぞれいつもと変わらない日常生活を送っていた。しかし、あの日(忘れもしない、私の息子が生まれた日だ)彼らには、何の落ち度もないのに、取り返しのつかない打撃が降りかかり、のちの人生が一変したしまった人もいる。
 今回の「事故」は、誰かの悪意によって仕組まれたものではない。しかし、TVの今のところの報道を見ていると(それが真実なのかまだはっきりしないが)現在の社会のシステムの中で起きるべくして起きてしまったものであるように感じる。
 いつからか、(たぶん日本の近代化の始まりから)、日本人全体に、仕事における一律な定時行動が絶対化されてきた。全ての会社で、朝9時業務開始、1分でも遅れればタイムカードに遅刻が記録され、勤務評価にひびいてくる。そのような社会に適応させるために、学校でも遅刻は厳しく指導される。チャイムが鳴り終わって教室にいなければやはり遅刻と扱われる。私は担任ではないので、たまにしか朝のSHRに行かないが、鳴り始めた時に廊下にまだいる生徒に向かって「急げー!」と怒鳴る。しかしそれは表向きのことで、1分ぐらい遅れて入ってきても「セーフ」にしてしまう。それが私の信念だから。1分の遅れは、許すべからざる悪事なのだろうか。私にはそうは思えない。全国に何百万人も生徒がいて、それがぴったり同時刻に行動しているのかと思うと気味が悪いくらいだ。
 おそらく、工場で働く労働者を一律に管理するための前段階としての教育なのだろう。あるいは旧軍隊でスケジュールにのっとった作戦を遂行させるためにも必要なのだろう。しかし、現在の社会においてそれを継続することに意味があるのだろうか。時代は変わっている。ネットの普及で、会議の予定を組むことも、先に時間を決めておかなくても、都合の良い時間を調整して、一人一人の仕事の流れを無理に中断しなくても可能であるはずだ。極端に考えれば、全員がある会議場に集まらなくても、ネットを仲介にした会議システムで、自宅や出張先から参加することもできる。
 出勤時間はもっとフレキシブルにして、朝のラッシュを緩和することの方がスマートな解決になると思う。通勤時間帯のラッシュは本当にひどい。人間が、人間としてでなく、肉の塊としてどれだけ詰め込むことができるかという、貨物並みの(あるいは以下の)惨状を毎朝繰り返すことが、その人々にどんなストレスになっているのか、考えると恐ろしい。
 『アンダーグラウンド』の中にも、ある人が「暗い地下の中で、狭く密閉された空間に互いに見ず知らずの人たちが詰め込まれ、凄い速度で運ばれていく、その事態がすでに異常なのに、私たちはその事に気づいていなかった」と発言していた。今回の事故は、そのような声に対して社会全体が、特にそれを運営する組織のトップがまったく耳を傾けていなかったことに起因している。
 「定時を守れ、秒単位で。できなければペナルティ。」このような数値目標が、働いている人間に、絶対的なものとして押しつけられる。この主客転倒。「目標」をたてることは大事である。しかしそれが「安全性」のような最重要なしかし目には見えにくいものをさしおいて、パッと見で判断できるからという理由だけで「至上命令」にしてしまうのは明らかに誤っている。しかし組織のトップはそんなことすらわかっていないのだ。
 そして、そのような間違った方針で、企業はみな、「成績主義」「数値目標」「効率重視」「コスト削減」といった原理を強化しつつある。それが業績アップに繋がるからだ。現にJR西日本線は、今期の決算で、今までの最高の利益を上げている。どれだけそれらの原理を徹底させたのか、そしてどうやって徹底させたのか、身の毛もよだつほどだ。その結果が今回の事故の最大原因だ。
 遅れを出した運転士は、日勤研修という「罰ゲーム」が科され、他の社員から引き離されて、一人個室で勉強させられる。上司からは罵倒の言葉を投げかけられ、草むしりをさせられる。社員の人権をまったく無視したやり方だ。
 もともと「成果主義」は欧米である程度成功したから日本でも採用されたのだろうが、それがうまくいと思ったら間違っている。欧米では「個人」というものがきっちり確立しているから、自分の業績をきちんと自己主張できるし、会社が理不尽なことを行ってきたら、納得がいくまで食い下がることができる。その均衡の上に成り立つものだ。しかし、日本のように「個人」が未成熟で、主張を通せない社会では結果は違ってくる。「和を以て尊しとなす」「滅私奉公」「出る杭は打たれる」という考え方の日本では、自己主張できず、自分を殺して、一方的にトップの言うことに従わなければならなくなってしまう。この状況でトップが間違った方針を押しつければ、現場は混乱し、大きなミスが起こるだろう。
 さて、長くなったが最後にもう少し。実は学校でもいま同じ事が起ころうとしている。千葉県では教員に対して「自己目標申告制度」というのを押しつけてきた。一人一人の教員がはっきり数値で分かるような目標を立て、最後に自己評価と、校長による評価をつけなければならない。評価が低ければ、最悪教員をやめなければならず、そこまででなくても給料がヘラされてしまうと言うものだ。現に鳥取県などでは、成績が最も悪かった教員に退職を勧奨し、5人がやめざるを得なくなってしまった。これは、生徒にとっても悪い影響がある。教員が目標達成に気を取られ、心の余裕を失う。すると、生徒に対しては厳しくあたり、今までのように、人間としてきちんと向き合って話を聞いてくれるようなことがなくなるのだ。これでいいのか?日本。