3年生の現代文、今回のテスト範囲は『舞姫』オンリー。採点してみたらっ!平均点が〜〜。言い訳させてもらえれば、私的には難しい問題を作ったつもりでは決してないのです。たぶん、やっぱり、作品自体が文語で書かれているから現代人には分かりにくい、それが原因かと。だからと言って現代語訳でテストするわけにもいかないし……。
元々ね、私はね、(大きい声では言えないのですが)『舞姫』とね、森鴎外があまり好きじゃない、というか、はっきり言って嫌いなんです。(偏見なんですけどね)理由を書き始めると長っくなるので、かいつまんで申し上げます。第一、エリスの人間としての造型がきちんとできていない。結局、豊太郎を誘惑し、難題を突きつるためだけの「装置」としか感じられない。第二、この話の流れで行くと結末で自壊するのはエリスではなく豊太郎の方でないとリアリティがない。まあ、それだとこの「手記」を書くことができなくなってしまうから仕方がないのですが。第三、(明治当時の)読者に与える影響がマイナスに働きすぎる。先駆者として、西欧近代の「人間」のありかたを目の当たりにしてきたお方が、いきなり「近代的自我」・「自由恋愛」の価値を葬り去ってレクイエムを奏でるとはどういうこと?第四、執筆動機が怪しい。後で述べますが、実際に鴎外が帰国した直後、「エリス」という女性が追っかけてきました。一説によれば、その事件が軍の内部で(鴎外は軍医のエリートなので)問題になりそうな雰囲気があり、やばいと思った鴎外は友達に相談、山県有朋(小説では天方伯ね)の許可のもと、保身の手段としてこれを書いたのではないかと言われています。つまり、日本の官僚システムの非人間性を訴えて、自分の責任を回避しようとしたということです。これは極端な考え方で、あまり一般的には支持されていないのですが、私は一理あると思っています。今回調べていてわかったのですが、『舞姫』の作品中の設定に、ある矛盾があるのです。それは、豊太郎が書いた新聞記事の内容、当時のドイツの政治的な事件は、豊太郎が帰国した後で起こっている、ということです。(実際には明治22年に起こっていることが、明治21年冬より前に書かれているのはおかしいですよね)なぜこんなわかりやすい間違いが気付かれないのか、それは鴎外が故意にそう設定したとしか説明のしようがありません。何のために?それは、エリスとの生活を「苦しい中にも楽しい日々」と印象づけるのに、愛情だけでは説得力に欠けると思ったから、豊太郎が記者の仕事にやりがいを見出していたということにするためです。それだけ、豊太郎のエリスへの愛情のリアリティが希薄だと言うことです。後半の心理描写の中から、本当に豊太郎が「千行の涙」をそそいだとは思えない。結局は悲劇性を高めるための作り事が露呈していると言わざるを得ません。
さらに、問題なのは、なぜ3年の現代文の教科書には必ず『舞姫』が入っているのか。口語で書かれた優れた小説だっていくらでもあるのに、敢えて読みづらい文語の作品を入れる必要があるのでしょうか。独断と偏見で言わせてもらいますが、文学という権威を担っている先生方は「エリス」というキャラに「萌える」からこの作品に価値を与えているのではないでしょうか。昔はこのような小説においてのみ男性は疑似恋愛を経験することができました。だから、必要以上に『舞姫』が権威づけられているというのは言い過ぎでしょうか?反論のある方はどうぞこの項にレスをつけて下さい。