指導主事訪問、または犬は本能で吠える

昨日、指導主事による学校訪問なるものが行われた。3年間で、千葉県の全部の県立高校を回っているらしい目的は、それぞれの学校の教育活動の改善ということらしい。。(水戸黄門の世直しか?)15人の指導主事が、校長から学校全体の状況を聞き、しかる後に個々の教員の授業を参観する。そして、各教科と、全体への講評があって終了である。まず、ほとんどの先生は迷惑としか思っていない。(当日の朝いきなり「原則として生徒は下校、部活動は停止」などと教務主任に言われたので余計に怒っている)私など、「指導主事」がどんな仕事をしていて、教員に対してどんな権限を持っているのかすら見当も付かない。(一般教員は「兵」で指導主事は「士官」とか、はっきりしてもらわないとどう対応して良いのかわからない)しかも、「研究授業」と銘打っておきながら、10分ぐらいでさっさと出て行ってしまい拍子抜けだ。(せっかく途中から何らかの方法で授業を迷走させて、怒られるネタを作っておこうとしていたのに。いきなり意味もなくキレ始めるとか、菅原道真の祟りの話で後半をつぶそうとかね。)で、国語科の分科会には二人の主事が来たのだが、そのうちの一人に対して急にむかっ腹が立ってきた。こまかいことは省くが、大人しく話を聞くだけにしようと思っていたのに、いつの間にか片っ端から反論し始めていた。(もう一人の先生もかなり激しくやり合っていた。)簡単に言えば、そいつからは「ワタヤノボル的」な臭いがぷんぷん漂っていたので、本能的に吠えてしまったのである。(私はO川先生や、F川先生や、I川先生達のような「教育に命をかける人」ではないので生意気なことを言う権利はないんだけどね)
どうしても納得がいかないことだけ、書く。(いろんな姑息な手段を使ってきた、と言うような部分は抜きで)第一、「教育活動をしながら、常に評価をしろ」という方針。毎時間キーポイントになる問題を考えさせて、一人一人の答えを見て回り、○か×をつけて回りなさいと言うことだ。まず物理的な問題点、一人見るのにできるだけ急いだとして、10秒としよう。全員見たら、歩き回る時間も必要なので、6分はかかる。それだけで、授業が進まなくなるし、それをやっている間、生徒は手持ちぶさたになる。こんなの時間のロス以外の何でもない。しかも、そのことによって生徒を「上・中・下」に選別して、全体の理解度をつかめ、というのだ。結局これは、「選別思想」なのであった、全体会の時にも、「この学校は中堅校で将来社会を支えていく人間として育てて欲しい」という発言が。つまり、「エリートにはエリートの教育を施しなさい、勉強ができない生徒は社会で対したことができないからせいぜい反抗的な人間にならないようにしなさい。」ということだ。「ゆとり教育」が行き詰まったから、そういう方針変換なのかよ。また、授業中常に評価をすると言うことは、教員にとっても、生徒にとっても息が詰まる状況だ。教員は「教える」ことより「評価」に気を取られて、授業の質も下がる。生徒は、一挙一動チェックされていると思うと「演じる」ことに力を使い、肝心の内容がおろそかになる。しかも、成績評価は、テストの点と、授業中の平常点の割合を半々にしろと言うことだ。果たしてそれで、公平で明確な評価ができるのか?文部省やら、教育委員会は、またも方針を間違えている。
第二、「毎時間目標をはっきり提示せよ。」教材の内容自体を説明するのはやめて、生徒に考える時間を与え、文章の読み方の指導に、重点を置きなさい、ということだ。たしかに毎日一つずつ目標をクリアーすれば、こつこつ力は付いていくだろう。がしかし、国語の授業でそれだけで終わって良いのか?「山月記」を通して学ぶのは、自分の中でどれだけ李徴の悲しみに共感し、人生の空費を取り返しのつかないものとして恐れる気持ちを持つことだ。それは、「視点」というポイントで内容を整理するんだよ、という「小説を読む技術」ではなくて、「山月記」を読んで事故を変容させていくことだ。「小説の読み方を教えなさい」という言は、文学作品の真の価値を貶めるものでしかない。
村上春樹先生、どうしたらこの世界から「ワタヤノボル」を立ち去らせることができるのでしょうか?教えて下さい。私たちには「井戸」も「バット」も与えられていないのです。