いかりや長介追悼番組

別にファンではないのだが、亡くなって初めてその存在が自分の内面の決して小さくない部分を占めていたことがわかった。ということは、日本人ならみんなそうなのだろう。ワイドショーで、誰かがコメントしていたが、「茶の間に家族みんなが集まってTVを囲んで、笑っていた時代の象徴だった。現在そういう家族の団らんがなくなってしまったことを寂しく思う」というのは単なるオヤジの感傷ではないのだ。戦後日本の「核家族化」がとどまることなく進行し、さらにその「核家族」すら、食事を一緒にとることもなく、自分の部屋で一人でTVに向かい、また居間に家族といても、話もしないで携帯メールに没頭しているというバラバラなものになりつつある。時代はめまぐるしく変化を続けているが、このような流れが最後にどこに到達するのか想像もつかない。「ドリフ」の笑いはとかく「PTA」や「文化人」の非難を受けてきたが、大げさに言えば、日本人の精神史の一角を占め、家族の絆に貢献してきたことは否定できないだろう。
もう一つ、お笑いグループのあり方という点でも時代の変化を示唆している。話はいきなり抽象的になるが、日本人の行動・思考の様式としてしばしば「集団主義」という言葉で定義される。西欧の「個人主義」との対比の構図が一つの定説になっている。「ドリフ」や「クレージーキャッツ」、「玉川カルテット」、「チャンバラトリオ」など、昭和30〜40年代のお笑いは、「グループ単位」が多くを占めていた。その後は、漫才のコンビ中心、それが現在ではコンビすら単位でなくなり、いわゆる「ピン」の活動がメインになってきた。これもまた、日本の社会構造が「集団重視・協調性重視」から「個性重視」にシフトしてきたことと無関係ではあるまい。それがいいことなのか悪いことなのかまでは私にはわからない。だが、「いかりや長介」という「真のリーダー」がいなくなってしまったことは、大きい意味を持っていると思う。「ドリフ」と「クレージーキャッツ」と比べたら、「クレージー」は才気煥発な集団で互いにそれをぶつけ合っているのだが、「ドリフ」の面々はそれほど才能には恵まれているように見えない。にもかかわらず爆発的な笑いを作り出せるのは「いかりや長介」がどうしょうもない変なメンバーを、うまく組み合わせ、それぞれの個性を引き出して、全体を総合していくという役割を真剣に考え続けていたからこそできることだと思う。戦前・戦中の「集団主義」は一人一人を同じ枠に縛り付け、トップダウンに逆らうものを許さない硬直した組織だった。しかし「ドリフ」はそれを否定し、日本に新しい「集団主義」の可能性を切り開いたと言ったら、言い過ぎだろうか?
いかりや長介」の葬儀がTVに繰り返し流されたが、こんなに普通の人たちに惜しまれる人間はほかにいましたか?仕事一筋で、大きな業績をのこし、人に優しく、誰からも好かれ、何のスキャンダルもない。日本を動かす政治家や官僚にこんな人いますか?「長さん」みたいな人こそ日本の中心に必要なんじゃないですか?ほんとうに心からご冥福をお祈りします。